タナタ氏の茶盌

Tanatas Teeschale

25頁
4行目
サミールは二度、足で蹴りつけた。ボクサーのあばら骨が二本折れた。
Samir nahm zwei Schritte Anlauf; der Tritt brach dem Boxer zwei Rippen.
 喧嘩馴れしたサミールの容赦のない的確な攻撃ぶりを表しており、蹴りは1度だけ。助走をつけて3歩目で蹴ったのである。

サミールは二歩助走をつけて蹴り上げ、ボクサーのあばら骨を二本へし折った。

25頁
5行目
顔は蹴らなかったし、
Er hatte nicht in das Gesicht getreten, ……
 同頁2行目で顔面にちゃんと膝蹴りを入れているし、サミールの基準に照らしてもアンフェアとなる攻撃でなければならない。

顔を踏みつけなかったし、

28頁
16行目
マノリスはもう一度、邸にもどり、台所を見つけた。腹を空かしていたのだ。
Manólis wollte nochmals zurück ins Haus, er hatte die Küche entdeckt, und er hatte Hunger.
 実際に邸に戻ってしまっては、長々と議論したあげく危険すぎるとの理由で戻るのを諦めたという、その後の文章につながらない。台所の発見だけが過去完了である。

マノリスはもう一度邸に戻ると主張した。彼は台所を見つけていて、腹がへっていたからだ。

29頁
5行目
サミールがその小箱をあけてみると、赤い絹布にくるまれた古い陶器が入っていた。
Samir öffnete sie. Sie war mit roter Seide ausgeschlagen, in ihr befand sich eine alte Schale.
 赤い絹布は、小箱の内側に張られている。陶器を包んでいることにしたため、タナタ邸での小箱と茶碗の描写(40頁10行目以下)との間に齟齬が生じている。

サミールは小箱をあけた。小箱の内側には赤い絹布が張られ、古い陶器が一つ入っていた。

32頁
9行目
ポコルはうなずくと、今度は用心のために用意している板を、オズジャンの額に叩きつけた。
Pocol nickte grunzend, wandete sich von Samir ab und schlug Özcan mit einem flachen Holzbrett, das er für solche Fälle im Laden hatte, auf die Stirn.
 板を「用心のために用意している」とすると、ポコルが小心者みたいになってしまう。 für solche Fälle は、「このような場合のため」、つまりチンピラを店に呼びつけて脅しあげるような場合のために用意しているのであり、ポコルが同様の行為をこれまでも繰り返してきたことが分かる文章である。

ポコルは不満げに鼻を鳴らしてうなずくと、今度はオズジャンに向き直り、こんなときのために店に用意してある板で額を殴りつけた。

33頁
3行目
それでもいまだに同居させていたのは、そのうちベイルートに売るためだった。その方面ではいまだに人身売買が行われている。ただその前に美容整形をさせる元手が必要だった。
Sie war noch da, weil er sie nach Beirut verkaufen wollte -- Menschenhandel funktionierte auch in diese Richtung -- und schließlich musste das Geld für den Schönheitschirurgen wieder reinkommen.
 翻訳の最後の文章は明らかにおかしい。これでは、女は整形手術しないと売り物にならない醜さで、しかもポコルにはその費用もないことになる。しかし、女はもともと美貌のうえに(だからポコルが目をつけた)、整形手術はすでにさせている。さらに、ポコルがそれほど金に困っているはずもない。 wieder reinkommen は、「取り戻す」である。

まだ彼女を手元においているのは、ベイルートに売り飛ばして――この方面では人身売買も行われている――美容整形手術のために使った金を取り戻さなければならないからだった。

35頁
7行目
ヴァーグナーは、警察に通報しないと約束させた。
Wagner wurde versichert, dass die Polizei nicht eingeshaltet würde.
 ヴァーグナーは陶器を譲り受けた善意の第三者であって犯行とは無関係という建前なので、警察に通報するな、などとは要求できないはずである。 dass 以下を確信したのである。

ヴァーグナーは、警察が介入してくることはないと確信した。

36頁
16行目
疲れていた。ドアをあけようと、前かがみになったとき、プシュッという物音を聞きつけた。ポコルはその音を知っていた。頭はすぐには働かなかったが、銃弾が後頭部に達する数百分の一秒前、それがなにか気づいた。
Er war müde, und als er sich nach vorne beugte, um die Tür aufzuschließen, hörte er ein hell surrendes Geräusch. Er kannte es. Sein Gehirun konnte es nicht schnell genug einordnen, aber eine hundertstel Sekunde bevor die Kugel am Ende der Teleskopstahlrute auf seinen Hinterkopf klatschte, wusste er, was er war.
 翻訳では、犯人が消音器つきの銃でポコルの後頭部を撃ったことになっている。しかし、聞こえたのは「プシュッ」というくぐもった物音ではなく、 ein hell surrendes Geräusch (甲高くブーンと唸るような音)である。サイレンサーで抑制された銃声とは異なる。そもそも、いきなり後頭部を銃で撃ってしまっては、拷問して情報を吐かせるという目的が達成できないではないか。すぐ後の文章にも、「鉄球をぶつけられて十四箇所骨折しており」とあり、Kugel が銃弾でないことは明らかである。実際の凶器は Teleskopstahlrute、つまり伸縮式の特殊警棒であり、Kugel は先端に取りつけられた鉄球である。したがって、音の正体は、特殊警棒を振って伸ばした際の金属音だろう。ポコル自身も使ったことがある武器なので、聞き覚えがあるわけである。

ポコルはくたびれていた。ドアの鍵を開けようと前かがみになったとき、「シャキン」という金属音が聞こえた。聞き覚えのある音だった。彼の脳は瞬間的に何の音か思い出すほど素早く働かなかったが、特殊警棒の先端の鉄球が後頭部にめり込む数百分の一秒前に、その正体が分かった。

39頁
5行目
金はおそらく公にできないものだろう。
…, das Geld nahm ich nicht an, es wäre Geldwäsche gewesen.
 三人がタナタ氏への返却を頼んだ金と時計と木箱のうち、金の受け取りは拒んだということをここで訳出しておかないと、この後、タナタ氏の秘書に対して時計と木箱しか渡さない「私」が金を着服するように思われてしまう。また、受け取らない理由は、三人が犯罪で稼いだそのままでは使えない金を洗浄(Geldwäsche)しようとしている可能性を否定できなかったからである。

しかし、金は受け取らなかった。マネー・ローンダリングに手を貸すことになるかもしれないからだ。

41頁
12行目
「もし入っていたとしたら」タナタ氏は私の言葉をさえぎった。「公にできないものでしょうな」
「は?」
「あなたが受領証を警察に提示するようなことがあれば、問題が起こるでしょう。それに、警察への被害届にも、金が盗まれたとは書いてありません」
»Wenn dort Geld gewesen wäre«, unterbrach er mich, »wäre es vielleicht unversteuert gewesen.«
»Ja?«
»Und da Sie eine Quittung der Polizei werden vorlegen müssen, würden Fragen gestellt. Auch bei der der Anzeige habe ich nicht angegeben, dass Geld gestohlen worden sei.«
 タナタ氏との会話でマネー・ローンダリングは杞憂だったと分かった「私」が金の返還方法に話を進めようとしたところ、タナタ氏が金庫に金など入っていなかったと意外なことを言う場面。
 「公にできない」理由が原文にはちゃんと書いてある。税金逃れ(unversteuert)の隠し金だったのである。また、「受領証を警察に提示するようなことがあれば…」では、なにやらタナタ氏が「私」を脅迫しているようである。 Fragen は「私」に対する危害をにおわせているともとれる「問題」ではなく、警察による「質問」である。弁護士である「私」を通してしまうと受領証の交付・警察への提出・質問責めという面倒なことが避けられないから、金の件は「私」抜きで解決するということをほのめかしている。

「もし金庫に金が入っていたとしたら」タナタ氏は私の言葉をさえぎった。「おそらく税金を払っていない金でしょうな」
「なんですって?」
「そして、あなたは警察に金の受領証を提出しなければならなくなりますが、あれこれ問いただされるでしょうね。被害届のさいに私は金が盗まれたとは一言も言っていないのですから」