正当防衛

Notwehr

131頁
7行目
ビールびんが砕け散り、ラベルがふわふわ舞い上がった。
Sie zersprang, das Etikett wellte sich langsam nach oben.
 割れたビールびんからラベルがふわふわ宙に舞い上がってしまっては、まるで手品である。

ビールびんは割れ、ラベルがゆっくりめくれあがった。

132頁
14行目
ベックはナイフについた血を指先につけて、男の手の甲になすりつけた。
Beck fasste mit einem Finger in den Blutstropfen und schmierte darin herum.
 ベックは手始めにナイフの先で男の手の甲をチクリと刺しただけである。血も玉になってゆっくりにじんでくる程のキズでしかなく、ナイフに血はついていない。

ベックは男の手の甲に浮かんだ血のしずくに指をつき入れ、ぐりぐりとなすりつけた。

132頁
16行目
男の胸元から十センチほどのところだ。
…, nur Zentimeter vor der Brust des Mannes.
 胸をかすめるようにナイフを横に二度ふるい、三度目にかすり傷を負わせる。10センチは離れすぎである。Zentimeter の Zen- を zehn と思ったのだろうか。

男の胸からわずか一センチほどのところを…

133頁
9行目
しかもナイフがベックの皮膚を切り裂いた瞬間、男はベックの拳を激しくたたいた。
Als der Stahl die Haut durchdrang, schlug der Mann hart auf Becks Faust.
 正当防衛の成否をめぐる議論のポイントとなる重要な一文である。つまり、ナイフが胸に刺さった時点でベックは攻撃力を失い、ここで急迫の危険は消滅した。したがって、さらに拳を叩いてナイフを深く突き入れた行為は正当防衛にあたらないというわけである。翻訳のように「皮膚を切り裂いた瞬間」では、この点が伝わらない。皮膚を切り裂いただけではベックの攻撃力は残っているのだから、拳を叩いてナイフを突き入れても問題なく正当防衛が成立する。

ナイフがベックの肌に突き刺さった直後、男はベックの拳を強く殴った。

134頁
3行目
急所である頸動脈洞に命中していた。それにより頸動脈が一気に膨張した。
Er hatte den Karotis-Sinus getroffen, eine kurze Auftreibung der inneren Halsschlagader.
 コンマ以下は、「頸動脈が一気に膨張した」ではなく、頸動脈洞の説明である。この部位に加えられた衝撃を(頸動脈の膨張を、ではなく)、神経系が血圧の急上昇と誤解したのである。柔道の絞め技で「落ちる」のもこの現象による。

突きは頸動脈洞に命中した。これは頸動脈がわずかに膨隆した部位である。

134頁
7行目
そのとき衝撃で繊細な頸動脈洞は破裂し、出血して神経を過剰に刺激した。
Der Schlag war so hart gewesen, dass er die empfindliche Wand des Karotis-Sinus zerrissen hatte. Blut drang ein und überreizte die Nerven.
 翻訳では膝をついた衝撃で頸動脈洞が破裂したかのようだが、男の突きの衝撃で破れていた(過去完了)のである。

男の一撃があまりに強烈だったため、頸動脈洞の繊細な血管壁が破裂していた。そこからの出血が神経を過剰に刺激した。

134頁
15行目
ふたりの死体、ベックの胸に刺さったナイフ、切り裂かれた男のシャツ、そして煙草を吸っている男。婦警の脳裏に警光灯が灯り、男に銃口を向けて叫んだ。「駅構内は禁煙だ」
Sie sah die Leichen, das Messer in Becks Brust, das zerschnittene Hemd des Mannes, und sie registrierte, dass er rauchte. In ihrem Gehirn gewannen alle Informationen die gleiche Dringlichkeit. Sie zog ihre Dienstwaffe, richtete sie auf den Mann und schrie: »Rauchen ist im gesamten Bahnhohsbereich verboten.«
 ここは読者をクスリとさせる場面だが、翻訳ではそれが伝わらない。「婦警の脳裏に警光灯が灯り」の「警光灯」に対応するのは die gleiche Dringlichkeit、つまり「同じ緊急性」である。眼前の状況が脳の処理能力を超えてしまったために、床に転がった死体や突き立ったナイフというこれまで経験したことのない重大犯罪の痕跡と、構内喫煙(彼女の日常の勤務では重大な違反行為なのだろう)とが区別できなくなったというのである。その行動のチグハグさが可笑しい。

婦人警官は、二つの死体とベックの胸に突き立ったナイフ、男の切り裂かれたシャツを見た。そして男が煙草を吸っているのに気づいた。彼女の脳内を、これらの情報がどれも同じ緊急性をもって駆けめぐった。彼女は拳銃を抜いて男に向け、叫んだ。「駅構内は全面禁煙よ!」

135頁
6行目
私はどういう事件かたずねたが、彼は何も聞いていなかった。警察からの電話を受けたのはベルリン事務所の秘書で、ある人物が駅で逮捕されたということしか知らされていなかった。警察にも本名が分からず、死亡事故に巻き込まれたその人物が、事務所の名刺を持っていたので連絡してきたのだ。それでキークライアントの関係者だとわかったという。
Ich fragte ihn, worum es gehe, aber er wusste nichts. Seine Sekretärin hatte von der Polizei einen Anruf bekommen, ihr sei nur mitgeteilt worden, dass jemand am Bahnhof festgenommen worden sei. Einen Namen habe sie nicht. Es ginge »wohl um Totschlag oder so etwas«, mehr wisse sie nicht. Es sei ein »Key-Client«, weil diese Telefonnummer nur an solche herausgegeben werde.
 本編は、謎の男の弁護を依頼された「私」が、まったく白紙の状態から少しずつ情報を得ていくという構成である。であるのに、翻訳は何のつもりか、もっと後にならないと分からない情報、つまり警察も名前を聞き出せていないとか、事務所の名刺を所持していたということなどを勝手にここで出してしまっている。弁護士の介入を嫌っている(139頁6行目)ダルガーは情報を極力伏せているのであり、所持品の件などをぺらぺら喋るはずがない。

私はどんな事件なのか尋ねたが、彼は何も知らなかった。彼の秘書が警察から電話を受けたが、駅で誰かが逮捕されたとしか告げられなかったという。秘書は名前も教えてもらえず、「殺人事件かなにか」に関係しているということしか知らなかった。しかし、警察がかけてきた電話番号はキークライアント専用の番号なので、キークライアントが関係しているに違いないというのである。

135頁
11行目
警視庁は近代的なガラスと鉄筋の高層ビルだが、築二百年の交番と大差がない。
Es spielt keine Rolle, ob Polizeistationen in einem modernen Glas-Stahl-Hochhaus order in einer zweihundert Jahre alten Wache untergebracht sind - sie alle gleichen sich.
 なぜ唐突に警視庁が出てくるのだろうか。原文は、警察署というのはどこも同じだという話をしているだけなのに。

警察署というものは、現代的なガラスと鉄筋でできた高層ビルに入っていようが、二百年前の古い番小屋をそのまま使っていようが、違いはない。どれもそっくりである。

136頁
7行目
十六年前、彼が殺人課に配属されたとき、尋問は取調べ捜査において最も重要視されていた。だから取り調べ捜査官になれたことで鼻が高かった。
Als er vor sechzehn Jahren zur Mordkommission kam, war das die Krone des Polizeiapparats. Er war stolz gewesen, dass er es geschafft hatte, …
 容疑者の取調べにおいて尋問が重要であることは、昔も今も変わらない。Polizeiapparat は「取調べ捜査」ではなく、警察組織のことである。かつて警察組織の Krone (頂点)だったのは殺人課であり、そこに配属されるのは誰もが憧れるエリートの証しだったのである。

十六年前に彼が殺人課に配属されたときは、殺人課は警察組織の花形だった。だから、そこの刑事になれたことが誇らしかった。

136頁
14行目
彼は見事なほど細かい点までよく記憶していて、直感に頼ることがなかった。
Er hatte ein brillantes Gedächtnis für Einzelheiten. Er verließ sich nicht auf sein Gefühl, auch wenn es ihn noch nie getäuscht hatte.
 翻訳ではなぜか省略されてしまっているが、原文では、ダルガーが直感に頼らないのは直感があてにならないからではない、ということが示されている。それどころか、彼の刑事としての直感はこれまで彼を裏切ったことがないのである。このことは、本編の最後(147頁)の伏線になっている。自分の直感の正しさを知っているからこそ、男を取り逃がすことが悔しくてならないのである。

彼は細部に対するずば抜けた記憶力に恵まれていた。そして、たとえ直感がこれまで一度として外れたことがなくても、直感に頼ることはしなかった。

138頁
1行目
ダルガーは男の身元調査を命じたが、なにひとつあきらかにならなかった。
Dalger hatte die Durchsuchung des Mannes angeordnet, aber man hatte nichts gefunden.
 名前すら分からないのに身元調査などできるわけがない。すぐ次に出てくる所持品リストとの関連をどう考えているのだろうか。

ダルガーは男の身体検査を命じたが、何も見つからなかった。

138頁
10行目
七 ローギス・メットカーフ法律事務所の名刺、ベルリン市内の電話番号つき。
7. Visitenkarte der Anwaltskanzlei Lorguis, Metcalf & Partner, Berlin mit einer Durchwahlnummer.
 これが問題の名刺である。本来なら、読者はここではじめてニューヨークの法律事務所に警察からの電話があった理由を知ることになる。ただの「ベルリン市内の電話番号」ではなく、キークライアント専用の直通電話であり、しかもニューヨークの電話番号である。

七 ローギス・メットカーフ&パートナー法律事務所(ベルリン)の名刺。直通電話番号つき。

141頁
11行目
ケスティングはすでに逮捕のあらましを調書にまとめて提出していた。それがなければ、そもそもこのような話し合いは持たれない。
Natürlich hatte Kesting bereits den Entwurf des Haftbefehls übergeben, ohne den der Termin gar nicht möglich wäre.
 今さら逮捕のあらましなどを問題にする必要はないだろう。Haftbefehl は逮捕令状である。なお、続く文章に出てくる男の容疑は、過失致死ではなく故殺である。

もちろん、ケスティングは逮捕令状の申請書をすでに提出していた。そうでなければ、そもそもこのような会合が開かれることはない。

142頁
1行目
しかし戦闘不能な相手に向かって発砲するといった過剰な行為は許されていない。首を取るなどということはもってのほかだ。
Aber man darf es auch nicht übertreiben: Dem Gegner, den man bereits kampfunfähig geschossen hat, darf man nicht auch noch den Kopf abschlagen.
 正当防衛と過剰防衛の境界を分かりやすく説明している箇所だが、翻訳は混乱している。攻撃してきた相手を(その武器がナイフであっても)銃で撃つのは正当防衛だが、それによって相手が無力化した以上、さらに加えた攻撃はすべて過剰防衛になるといっている。

しかし、過剰な行為をしてはならない。銃で撃って無力にした相手の首を切り落とすなどということは許されないのである。

142頁
10行目
その点で起訴するのであれば、この件は特別重罪部を通すべきです。ケスティング検察官ほどの方なら、よくご存知のはずです。
Staatsanwalt Kesting is viel zu erfahren, um zu glauben, dass er eine solche Anklage vor einem Schwurgericht durchbächte.
 ケスティングが検察局の重罪担当官である(139頁15行目)ことからの連想からか、翻訳は「特別重罪部」(Schwurgericht)を検察局の一部局と考えている。しかし、これはドイツ犯罪小説の翻訳としては恥ずかしいほど初歩的な誤解である。特別重罪部は、殺人をはじめとする一定の重大な犯罪を担当する地方裁判所の大刑事部のことである。
 すなわち、「新米検察官ならともかく、そんな無理筋の起訴で公判を維持できるなんて本気で考えてはいないでしょう?」と言っているのである。なお、「特別重罪部」という用語を唐突に出すのは違和感があるから、避けた方がよいと思われる(Schwurgericht は他の箇所でも何度か出てくるが、この訳語は一度も使われていない)。

経験豊かなケスティング検察官なら、そんな論拠で起訴できるはずがないことくらい十分に承知しているはずです。

144頁
2行目
男はぼんやりベンチにすわっていた。
Der Mann saß teilnahmslos auf der Bank.
 「ぼんやり」させてはダメである。目の前で自分が自由になるか否かを決める論争が行われていれば、普通なら気が気ではないはずなのに、男は何の関心も示さず(teilnahmslos)平然としているのだ。やはりただ者ではないという印象を与える箇所である。

男は無関心な様子で腰かけに座っていた。

145頁
10行目
もしあのふたりがここにいたら、私は検死調書がなくてもふたりに対して逮捕令状をだしているだろう。そのことからも、過剰防衛でないことは明らかだ。
Dass die Überlegung richtig ist, ergibt sich auch daraus, dass ich sicher Haftbefehl gegen die beiden Schläger erlassen hätte, wenn sie jetzt vor mir sitzen würden und nicht auf dem Tisch der Pathologie lägen.
 「検死調書がなくても」という誤訳のために意味不明になっている。Tisch der Pathologie は病理学の机、つまり解剖台のことであり、いま二人がそこで解剖されているのではなく、自分の目の前にいるならば、という皮肉まじりのセリフである。

この結論が正しいことは、もしあのチンピラふたりが解剖台に寝かされているかわりに私の目の前に座っているならば、私が間違いなくふたりに対して逮捕令状を出しただろうということからも明らかだ。

146頁
6行目
明らかに悔しそうだ。釈放という結論が気に入らないのだ。
Die Sache ärgerte ihn offensichtlich, auch das passte nicht zu ihm.
 たしかに passen には「気に入る」という意味があるが、その場合 zu はいらないし、auch も訳出されていない。ダルガーのような刑事が一容疑者の拘留審査の結果にこだわるのが珍しいだけでなく、釈放に決まったと聞いて苛立つのもまた彼らしくない、というのである。なにか尋常ではない事態が起こっているということを予感させる箇所である。

彼は明らかに苛立っていた。これも彼には似つかわしくないことだった。