チェロ

Das Cello

49頁
1行目
ふたりの雰囲気はよく似ていて姉と弟のちがいはそれほどないように思われた。
Der Gegensatz zwischen den beiden Geschwistern hätte nicht größer sein können.
 人並み外れた美貌の持ち主であるテレーザと魁偉な父親に似たレオンハルトがよく似ているはずがない。nicht größer sein können は、姉弟の違いが「これより大きくなりえない」であり、正反対の誤訳である。

姉と弟のようすは、これ以上ないほど対照的だった。

49頁
5行目
客たちは小さな椅子にすわり、しだいに気分が高揚した。
Die Gäste saßen auf winzigen Stühlen, sie verstummten allmählich,…
 なぜ「気分が高揚した」になるのか。verstummten を verstimmten とでも見誤ったのだろうか。

客たちは小さな椅子にすわり、しだいに静かになった。

50頁
3行目
…妻の手袋とシャンパングラス…
…, waren iher Handtasche und ein Sektglas,…
 Handschuhe ではなく Handtasche である。

…妻のハンドバッグとシャンパングラス…

51頁
4行目
最初にエッタ、次に父が、家出に気づいて騒ぎ出すものと思っていた。だがだれひとり気がつかなかった。
Er stellte sich vor, wie erst Etta und dann sein Vater verzweifeln und seine Flucht beklagen würden. Es verzweifelte niemand.
 レオンハルトがいなくなっていることには気づいている。だから、エッタが「すぐ帰ってこないと夕飯抜きだよ!」と叫ぶのであり、彼も父たちを心配させるのを諦めて帰宅するのである。単に家出を気づかれていないだけなら、樹上で頑張って夕飯に戻らないのが一番ではないか。幼い少年の家出を知りながら気にかけようとしない冷淡さを物語るエピソードである。

レオンハルトは、最初にエッタが、次に父が、絶望して彼の家出を嘆き悲しむだろうと想像していた。しかし、誰も絶望などしなかった。

51頁
11行目
エッタはもらったおもちゃを地下室に片付けてしまった。タックラーも「こんなものは必要ない」といって、子どもの言葉に耳を貸さず、エッタの考えに同意した。
Etta brachte die Spielsachen in den Keller. »So etwas brauchen die nicht«, sagte sie, und Tackler, der nich zugehört hatte, stimmte zu.
 「こんなものは必要ない」はエッタのセリフである。また、「子どもの言葉に耳を貸さず」とあるが、これでは子どもたちがおもちゃの処置について父に不満を訴えたようになる。しかし、この家でそのような反抗が許されるはずがない。タックラーは、子どもたち自身が「おもちゃはいらない」と言うのを聞いたわけでもないのに(過去完了)、エッタのやり方に同意したというわけで、子どもたちの意思が一顧だにされないことを物語るエピソードである。

エッタは、おもちゃを地下室に片付けてしまった。彼女が「あの子たちはあんなものいらないんですよ」と言うと、タックラーは、子どもたちがそう言うのを聞いたわけでもないのに、その通りだとうなずいた。

52頁
12行目
タックラーはいつも十マルクしかくれなかった。
…, gab ihnen Tackler zusammen zehn Euro, …
 わざわざ原文のユーロをマルクに変える理由がまったく不明。幼少のころのタンポポ抜きの駄賃がペニヒで、今はユーロということにより、物語の時代背景も分かるのだが。

タックラーは、二人あわせて十ユーロしかやらなかった。

53頁
2行目
そしてついには父親の世界と縁を切り、なにひとつ話さなくなった。
…, und schließlich war seine Welt ihnen so fremd geworden, dass sie ihm nichts mehr zu sagen hatte.
 父親の世界との絶縁を試みるのは、もっと後である。まだ二人の方から積極的に何かする段階ではない。

そして、ついには父の世界があまりにも二人とかけ離れたものとなったので、もはや父に話すべきことが何もなくなった。

55頁
1行目
書棚に組み込んだテレビに、自分が撮影した映像が消音にして流れていた。ハイエイトビデオカメラで撮り、ビデオテープにダビングしたものだ。
Auf dem Bildschirm, der in die Bücherwand eingebaut war, lief ein selbst gedrehter Film ohne Ton. Er war von einer Super-8-Kamera auf Video überspielt worden.
 おそらくヴィム・ヴェンダースの映画『パリ、テキサス』を下敷きにしたシーンである。
 翻訳では撮影をビデオカメラで行ったことになっているが、そうではない。Super-8-Kamera は懐かしのフィルム式8ミリカメラであり、それをビデオテープに変換・保存しているわけである。したがって、同頁7行目の「録画モードのまま」や10行目の「テープが切れたのだ」も誤りである(後者は、「フィルムが終わったのだ」。8ミリフィルムは1リールで数分~20分程度しか撮れない)。
 また、「消音にして」というとタックラーがボリュームをわざと下げて見ていることになるが、そんなことをする理由がない。豪邸住まいなのだから、部屋からの音漏れを気にする必要などないだろう。もともと音声は記録されていないのである。

書棚に組み込んだテレビの画面に、家族で撮った無音の映像が流れていた。八ミリカメラで撮影したものをビデオテープに落としたものだ。

55頁
12行目
タックラーは本当の悪党ではなかった。朝食の席でふたりにそれぞれ二十五万ユーロの小切手を渡し、これでいいだろうと思った。
Tackler wollte kein schlechter Mensche sein. Er schrieb jedem seiner Kinder einen Scheck über 250000 Euro aus und legte sie auf den Frühstückstisch. Er fand, das wäre genug.
 レオンハルトとテレーザに「どこまで苦しめれば気がすむんだ」「あんたみたいになりたくない」とまで言われてショックを受けたタックラーが、家族が全員そろって幸せだった頃の古い8ミリ映像をみて考えを改め、彼なりの償いをするシーンである。
 まず1文目、翻訳には wollte が反映されていない。そもそも、「本当の悪党ではなかった」というと「それなりの悪党」ではあったかのようだが、はたしてそうだろうか。タックラーは自分なりに父親らしい振る舞いをしてきただけなのだ。父が自分を扱ったと同じように自分の子どもたちにも接し、彼らを自分のように鍛えあげようとしてきたのである。だが、子どもたちは自分とは違った。子どもたちのために良かれと思ってしてきたことが、実際は子どもたちの心を深く傷つけていた。このことにようやく気付き、できるだけの償いをしようというのである。本編冒頭のテレーザのための大金を投じた演奏会は、その一環である。「悪党」呼ばわりはひどすぎる。
 2文目、子どもたちとの間にあれほど破局的なことがあった翌朝、一緒に食卓を囲んでいることになるが、それはおかしい。
 3文目、「これでいい」では何にいいのか分からない。悪党らしく、これで文句ないだろうという手切れ金とも思われかねない。そうではなく、タックラーは二人で家を出ていくというテレーザの希望を認め、全面的に支援する決意をしており、音楽学校をでるまでの生活費として25万ユーロずつあれば十分だろうと考えたのである。

タックラーは悪人になりたくなかった。子どもたちにそれぞれ二十五万ユーロの小切手を書くと、朝食用のテーブルに置いた。これで足りるだろうと思った。

56頁
1行目
演奏会の翌日、全国紙に提灯記事がのった。
Am Tag nach dem Konzert gab es in einer überregionalen Zeitung einen fast euphorischen Artikel.
 「提灯記事」では、タックラーが金で書かせた誇大なべた褒め記事ということになるが、原文では fast euphorischen Artikel 、「ほとんど幸福感に満ちあふれた記事」である。テレーザの才能を否定するこの揶揄的な言葉ひとつによって、彼女が父親の財力の上にあぐらをかいた愚かな勘違い女になってしまっている。いい加減な翻訳によって作品がいかにたやすく損なわれるかの好例といえよう。だいたい、著名な音楽評論家が全国紙に軽々しく提灯記事を書くというのは考えられないし、テレーザの演奏を直に聴いた「私」が演奏の素晴らしさに感銘を受けて「圧倒的な至福のとき」(49頁9行目)と評し、2年後に再会した時も「あれはすばらしかった」(56頁14行目)と賞賛することとも矛盾するではないか。

演奏会の翌日、陶酔感いまだ覚めやらぬ記事が全国紙に掲載された。

56頁
4行目
姉と弟は二年あまり、ヨーロッパやアメリカ合衆国を旅してまわった。テレーザは数回、プライベートな演奏会をひらいたが、それ以外の時間は弟のためだけに使った。父親からもらった金で、ふたりはしばらく自由気ままな暮らしができた。ふたりは常にいっしょだった。色恋沙汰もあったが、本気になったためしはない。
Die Geschwisterfuhren fast drei Jahre lang durch Europa und die USA. Sie spielte auf ein paar privaten Konzerten und ansonsten nur für ihren Bruder. Das Geld Tacklers machte die Geschwister zumindest für einige Zeit unabhängig. Sie blieben unzertrennlich. Ihre Affären nahmnen sie nich ernst, …
 1文目、二人の旅は「二年あまり」ではなく、「ほとんど三年」。
 2文目、まるで音楽活動はおざなりにして遊び回っているかのようだが、spielte は nur für ihren Bruder にもかかっている。普段はレオンハルトのためだけに演奏していたのである。だから、映画『メメント』ばりの前向性健忘という深刻な記憶力障害に陥った後もテレーザの演奏にだけは反応して、「チェロには感じるものがあるらしい」(60頁13行目)となるのだ。
 それから最後の文、これがより重要である。翻訳では、二人がそれぞれ恋人をつくってそれなりに楽しんでいたようになる。これでは二人の絆が弱められ、本編のモチーフそのものが損なわれてしまう。二人は、お互い以外には何も必要としていないのであり、色恋沙汰はおかしい。Affären は、あまりに親密な姉弟の関係を勘ぐった下卑た醜聞を意味するのではないか。

姉と弟は、ほとんど三年にわたってヨーロッパ中を旅し、アメリカにも渡った。テレーザは、私的な演奏会を何度か開いたほかは、弟のためにだけ演奏した。父親からもらった金で、少なくともしばらくの間は何不自由なく暮らすことができた。二人はいつも寄り添っていた。姉弟の関係をあれこれ憶測する噂を気にもとめなかった。

57頁
9行目
だが大腸菌はまたたくまに全身に広がった。ふたりは二日前、ガソリンスタンドで酒を飲む前に、海水浴をしていた。
Die E.-Coli-Bakterien breiteten sich schnell in seinem Körper aus. Sie waren im Wasser gewesen, das er vor zwei Tagen an einer Tankstelle getrunken hatte.
 2文目は完全な誤訳である。大腸菌が海水に混じっていたという理解のようだが、それなら一緒に泳いだテレーザも感染しているはずだし、ガソリンスタンドで酒を飲むというのも何だかよく分からない。2文目の主語 Sie は、「ふたり」ではなく、1文目の「大腸菌」を指している。そして、コンマの次の das は、もちろん Wasser を先行詞とする定関係代名詞である。

大腸菌はまたたくまに全身に広がった。レオンハルトが二日前にガソリンスタンドで飲んだ水の中に、バクテリアがひそんでいたのだ。

58頁
7行目
医者は、尿毒症だと告げた。
Der Arzt sagte, es sei eine Urosepsis mit Mutiorganversagen.
 ただの「尿毒症」ではあんまりである。これを聞いたテレーザには「意味が分からなかった」にもつながらない。生存可能性わずか20パーセントで、しかもレオンハルトに極めて深刻な後遺症を残す病気なのだから、きちんと訳出してくれないと困る。

医者は、尿路性敗血症で多臓器不全に陥っていると告げた。

60頁
2行目
テレーザは身のまわりのことを気に掛けなくなり、髪はぼさぼさになり、肌が荒れた。
Allmählich verfiel Theresa, ihr Haar wurde strohig, ihre Haut fahl.
 翻訳ではテレーザがだらしなくなったかのようだが、彼女はレオンハルトの看護で消耗しきっているのである。

次第にテレーザは憔悴していき、髪に油気がなくなり、肌は色つやを失った。

61頁
13行目
テレーザは弟を浴室に連れていき、大きな浴槽に横たえて、弟の服を脱がせた。レオンハルトは浴槽の縁をつかむ力も残っていなかった。テレーザも服を脱ぎ、弟がつかっている温かい湯の中に入った。
Sie schob ihn ins Badezimmer und ließ die große Wanne ein. Sie zog ihn aus, er hatte kaum noch die Kraft, sich an den neuen Griffen in die Wanne zu wuchten. Dann zog auch sie sich aus und stieg zu ihm in das warme Wasser.
 レオンハルトをいきなり浴槽に横たえてしまっては服を脱がせるのは難しいし、彼が黙って横になるのも変である。ließ die große Wanne ein は、「浴槽に湯を張った」である。
 「浴槽の縁をつかむ力も残っていなかった」というのは、浴槽に横たわった状態から身を起こそうともがく力もなかった、というイメージなのだろうが、前提が間違いだから、これも誤訳である。原文では、レオンハルトのために新たに取り付けられた手すり(Griffen。縁ではない)を握って浴槽に入る力はほとんどなかったとなっている。この時点では、テレーザに助けられながらもなんとか自分で浴槽に入る力は辛うじて残っていたわけである。

テレーザは車椅子を押して浴室に連れていくと、大きな浴槽に湯を張り、レオンハルトの服を脱がせた。彼には手すりにすがって浴槽に入るのがやっとの力しか残っていなかった。それからテレーザも服を脱ぎ、弟がつかっている温かい湯の中に入った。

62頁
10行目
取調官の前でほぼ七時間にわたって自分の人生を語った。彼女は一切釈明せず、…
…, sie saß fast sieben Stunden vor den beiden Ermittlungsbeamten und diktierte ihr Leben ins Protokoll. Sie legte Rechenschaft ab.
 翻訳の2文目、たしかに Rechenschaft には「釈明」の意味もあるが、動詞の ablegen は「しない」ではなく「する」であるから、「釈明せず」はやはりおかしい。

二人の取調官の前で、ほぼ七時間かけて自分の人生を調書に記させた。それは彼女自身についての説明だった。

64頁
1行目
依頼人の所持品は、その刑事訴訟の全権を与えられている弁護人が受け取ることになっている。
In unserer Strafprozessvollmacht steht, dass wir als Anwälte berechtigt sind, Gegenstände für unsere Mandanten in Emphang zu nehmen.
 「全権」というのは vollmacht の訳のつもりだろうか。しかし、これは委任状のことである。「私」の法律事務所に限らず、依頼人の金品や訴訟関連資料などの代理受領権を弁護人に付与する条項は一般的に用いられている。

私たちが使っている刑事弁護委任状では、私たち弁護人が依頼人に代わって物品を受け取れることになっている。

64頁
6行目
テレーザは、朗読するところに青ペンで線を引き、その横に小さなメモを書き記していた。
Sie hatte die Stellen, die sie vorlesen wollte, blau angestrichen und daneben winzige Noten gezeichnet.
 「メモ」なら Notizen であるが、ここでは Noten、つまり「音符」である。文脈上も、朗読する際の声の強弱やテンポなどを音楽記号で記していたという方が、楽器を失った若き天才音楽家にふさわしいし、「彼女には自分を表現するすべが他にない」(63頁5行)にも整合的である。それに、メモがたくさん書き込まれているのなら、「私」はその内容にまず興味を引かれるはずである。

テレーザは、朗読する箇所に青線を引き、その横に小さな音符を描き入れていた。