サマータイム

summertime

97頁頁
2行目
コンスエラはその女のあらわな胸を見た。頭には布がかぶせてあった。
…, Consuela sah ihre Brüste, der Kopf war verdeckt.
 死体の頭に布などかぶせられていない。もし布がかかっていたのなら、コンスエラはわざわざ死体のそばまで行き、怖いもの見たさで血に染まった布をはいだということになる。実際には、二歩進んだところで鉄製の電気スタンドがめりこんだ無惨な顔が見え、彼女は悲鳴をあげている。verdecken は、単に見えなかったという意味である。

コンスエラの位置からは女の乳房が目に入ったが、顔は見えなかった。

98頁
13行目
そしてすごい体験をし、たくさんの新しい仲間ができた。出所したとき、アッバスにはいくつかはっきり分かったことがあった
Es war eine tolle Zeit. Im Gefängnis fand er viele neue Freunde, und als er entlassen wurde, war ihm einiges klar geworden.
 「すごい体験」とは何だったのか想像がふくらむが、結局分からず、もやもやする。すごい体験をしたことと仲間ができたこととを同列で訳しているのが原因である。原文では、初めての拘禁処分は「素晴らしい時間」だった、なぜなら施設内で仲間ができ、有用な知識も得られたからだ、といっている。

それはすばらしい時間だった。拘禁施設の中でたくさんの新しい仲間ができたし、退所するときにはいくつかのことがはっきりしていた。

100頁
5行目
アッバスは自動車修理工になりたかった。ペンキ屋や家具職人でもいいと思っていた。だが麻薬密売人になってしまった。しかもそれで終わらなかった。
Abbas wäre gerne Automechaniker geworden. Oder Maler. Oder Tischler. Oder sonst irgendetwas. Aber er wurde Drogenhändler. Und jetzt war er nicht einmal mehr das:
 アッバスは、よりによって麻薬の売人になってしまったのだが、「しかもそれで終わらなかった」のではなく、それも終わってしまったのである。つまり、今では売人ですらなくなったのだ。いったい彼に何が起こったのかと、読者が引き込まれることになる。

アッバスは自動車整備工になりたいと思っていた。いや、塗装工でも家具職人でも何でもよかった。しかし、彼は麻薬密売人になってしまった。そして今では、もはやそれですらなかった。

103頁
2行目
寝ることを拒否したが、男は優しかった。想像したのとはだいぶ違っていた。男はハンサムで、身だしなみがよかった。男に触られ、口で満足させなければならなかったときは吐きそうになったが、なんとかやり遂げた。
Sie war abweisend zu ihm, aber der Mann war freundlich and gar nicht so, wie sie sich das vorgestellt hatte. Er sah sogar gut aus und war gepflegt. Es hatte sie zwar geekelt, wie er sie angefasst hatte und wie sie ihn befriedigen musste, aber irgendwie hatte sie es geschafft.
 自分で援助交際の広告を出しておきながら寝るのを拒否したら、いくらボーハイムでも怒るだろう。怒らないとしても、これから毎週数回のペースで会いたいという気にはならないだろう。シュテファニーは彼に対して abweisend (拒絶的)だっただけである。「口で満足」云々は、気の回しすぎである。

彼女はそっけない態度をとった。しかし、男は感じがよく、想像していたのとはまるで違った。それどころか美男子で、身なりもよかった。男に体を触られ、満足させてやらねばならなかったときはたしかに嫌でたまらなかったが、それでもどうにかやり遂げた。

104頁
5行目
世間では馬の調教師として知られている。そして多くの女性騎手がそうであるように、彼女の人生はほとんど馬のためにしかなかった。
Sie war der Öffentlichkeit als Dressurreiterin bekannt, und wie viele Reiterinnen lebte sie ausschließlich für ihre Pferde.
 いったいボーハイムの妻は調教師なのか騎手なのか、はっきりしてほしい。Dressur には調教の意味もあるが、Dressurreiterin はドレサージュ(馬場馬術)の女性騎手のことである。

世間ではドレサージュの女性騎手として知られており、多くの女性騎手と同じように彼女の生活はほとんど馬に捧げられていた。

105頁
5行目
これまでシュテファニーはセックスに対して奥手だったが、ふたりの関係に揺るぎはなかった。それが最近、逆転してしまった。
Bischer war sie beim Sex etwas unsicher, aber in der Beziehung überlegen gewesen, jetzt schien sich das umzukehren.
 翻訳では何が逆転したのか分からない。これまでシュテファニーはセックスには自信がないが、日常生活ではアッバスを尻に敷くようなところがあったのに(「ふたりの関係に揺るぎはなかった」ではない)、それが正反対になって、ベッドで大胆に、普段の関係では自信を喪失してしまった(まだ自分を愛しているか、しつこく尋ねたりする)というのである。

これまで彼女はセックスのときには少し自信なげなところがあったが、普段の関係では自分の方がアッバスよりも上だというような顔をしていた。それが今では正反対になってしまったのだ。

108頁
9行目
シュミートはベルリン検察局で十二年にわたって経済犯罪摘発の陣頭指揮をとってきた。
Schmied war seit zwölf Jahren Leiter der Abteilung für Kapitalverbrechen bei der Staatsanwaltschaft Berlin.
 シュミートが経済犯罪担当なら、なぜシュテファニー殺人事件を担当するのだろうか。これまで司法解剖に何度も立ち会ってきたといった記述とも矛盾する。Kapitalverbrechen の Kapital は「資本」ではなく「重大な」という形容詞の方で、重罪のことである。(139頁15行目、151頁4行目では「重罪」「重犯罪」と正しく訳しているのに)

シュミートはベルリン検察局で重罪課の責任者を十二年間も務めてきた。

110頁
9行目
剖検写真の黄色いファイルを見ると、シュミートはいつもいやな気分になる。写真の束にざっと目を通した。青い背景が鮮明に写っている。必要に迫られなければ見たくもない。
Der gelbe Band mit den Obduktionsfotos war Schmied wie immer unangenehm. Er sah ihn nur kurz durch, Bilder, überscharf auf blauem Hintergrund, die man nur ertragen konnte, wenn man sich zwang, sie lange anzusehen.
 「青い背景が鮮明に写っている」というのは奇妙である。背景を気にする理由が不明だし、そもそも写真に「青い背景」が写っているとすると、解剖台や解剖室の床や壁が青いということになるが、それは考えられない。 blauem Hintergrund の上の überscharf な Bilder である。つまり、写真の台紙が青いのである。また、写真が鮮明なのは当たり前であって、わざわざそれを言う必要はない。überscharf の scharf は「鮮明な、はっきりした」ではなく、「厳しい、激しい」の意味だろう。

剖検写真をおさめた黄色いファイルを見たシュミートはいつものように胸が悪くなった。彼はさっとしか目を通さなかった。青い台紙に貼られた過酷な写真は、無理強いされるのでもなければ、とても長く直視していられるようなものではなかった。

110頁
14行目
ただ、あのにおい、そうあの腐臭を監察医は何とも思わないが、シュミートはいつになっても慣れることができなかった。
Nur an den Geruch, diesen typischen Verwesungsgeruch, würde er sich nie gewöhnen - den meisten Medizinern ging es nicht anders.
 nicht anders だから、たいていの監察医もシュミートと異なるところはないといっている。監察医だって腐臭はつらいのだ。しかし、臭いも重要な手がかりなので、彼らは鼻の下にメンソールを塗ったりできない、と続く。

ただ臭い、あの特徴的な腐敗臭だけは決して慣れることができなかった。それはたいていの監察医にとっても同じである。

111頁
11行目
弁護団は駆け引きの仕方も知らず、…
… Sie wussten nicht, welche Anträge sie stellen mussten,…
 いま必要なのは姑息な「駆け引き」ではなく、保釈請求など訴訟手続上の申立て(Anträge)をすることである。

彼らはどんな申立てをしなければならないかも知らず、…

111頁
15行目
勾留期間は公にされていなかったのだ。
…der Verkündungstermin war nich öffentlich.
 ボーハイムの妻は夫に会えるかもしれないと裁判所の審理室の前で待っているのだから、Verkündungstermin を勾留期間とするのは変である。

審理日程は公表されていなかった。

117頁
7行目
「それにグラス、ドアノブ、窓の取っ手などいたるところで彼の指紋が検出されています。殺意があったとはいえないでしょう」
»Und alle anderen Spuren, die auf Wassergläsern, and Tür- und Fensterklinken usw. gesichert wurden, sind durch seinen Aufenthalt in dem Hotel unschuldig to erklären«, sagte ich weiter.
 殺意の有無を問題としているのではなく、ボーハイムと犯行とを結びつける物証は何もないと言っている。

「そして、コップやドアノブ、窓の取っ手などから検出された指紋はすべて、ボーハイムがその部屋に滞在していたということから説明がつき、彼を犯行と結びつける証拠とはなりません」。私は続けて言った。

121頁
10行目
裁判はモアビート裁判所五〇〇号法廷で行われた。検察局は過失致死罪で起訴していた。
Der Prozess fand im Sall 500 in Moabit statt. Die Staatsanwaltschaft hatte Anklage wegen Totschlags erhoben.
 1文目、「モアビート裁判所」なるものは存在しない。「モアビット」はベルリン地方裁判所の所在地である。
 2文目、鈍器で顔が原型をとどめないほど何度も殴りつけておいて、過失致死というのは驚きである。まるで検察局が政治的圧力かなにかによって不当に軽い罪で起訴したかのようである。原文の Totschlag は故殺であり、激怒状態などの減刑事情がある点で Mord (謀殺)から区別されるが、あくまで故意の殺人である。

裁判はモアビットのベルリン地方裁判所五〇〇号法廷で開かれた。検察局は被告人を故殺罪で起訴していた。

123頁
3行目
アッバスは話がその件に及ぶと、質問をはぐらかした。
Abbas verneinte jede Frage in dieser Richtung.
 事件当日にホテルにいたかという最も重要な質問をはぐらかしてしまっては、疑惑が濃厚になるだけである。実際には明確に答えている。

アッバスはこの方向の質問をすべて否定した。

123頁
14行目
シュテファニーの女ともだちが、売春をした理由を証言したとき、ボーハイムは顔を曇らせた。
Lediglich Stefanies Freundin, der sie den Grund für die Prostitution gestanden hatte, ließ einen Schatten auf Boheim fallen.
 証人尋問は新しいことが何も出てこないまま淡々と進んだが、シュテファニーの友人の証言だけはボーハイムに影を落とした(不利に働いた)のである。顔を曇らせたのではない。ボーハイムは一貫して沈着冷静に構えているのであり、こんなことで表情を変えさせてはいけない。

ただ、シュテファニーが売春の理由を打ち明けていた女ともだちの証言は、ボーハイムのうえに影を落とした。

127頁
9行目
メラニー・ボーハイムは、裁判が終了した一ヶ月後、離婚した。
Melanie Boheim reichte einen Monat nach Ende des Prozesses die Scheidung ein.
 細かいことだが、ドイツでは日本のような協議離婚は認められておらず、必ず裁判所の判決によらなければならない。だからここは、離婚訴訟を提起した、が正しい。原文も einreichen (申請する)となっている。
 現在のドイツ離婚法は破綻主義をとっており、ボーハイム夫婦の婚姻関係は既に破綻しているといえるから、メラニーの申立てが認められる可能性は高いだろう。ただし、婚姻の継続が未成年の子にとって必要であるという特別の理由がある場合には請求が棄却されることもあり、息子ベネディクトの存在が裁判の結果に影響を与えるかもしれない。
 なお、翻訳では、本編はこの文章で終わっているが、原文ではこの後に極めて重要な段落が続いていることについて、トップページを参照のこと。

メラニー・ボーハイムは、裁判が終了した一ヶ月後、離婚を申し立てた。