幸 運

Glück

82頁
3行目
三度目の選挙で候補者に名乗りを上げ、見事当選した。
…, und er hatte die dritte Wahlperiode als Abgeordneter auf einem mittleren Listenplatz überstanden.
 翻訳では、ポスター貼りや演説や後援会づくりに専念しながら、二度までも立候補を見送ったことになり、あまりにも気の長い話である。原文では、「議員としての三期目」となっている。
 なお、同頁5行目。委員会の長は「会長」ではなく「委員長」でしょう、普通。

そして、彼は議員としての三期目の選挙を真ん中ぐらいの当選順位で切り抜けたのだった。

83頁
8行目
男の顔が横を向き、よだれがあごを伝い、目が天井を向いている。
Er hatte den Kopf zur Seite gedreht, Speichel war auf das Kissen gelaufen, die Augen waren zur Decke verdreht.
 自分で実験してみてほしい。仰向けになって顔が横を向いているのに、よだれがあごを伝うなんてことがあるだろうか。重力無視である。Kissen(クッション、枕) を Kinn(あご) と見間違えたのだろう。
 また、顔は横向きなのに目だけが天井を向くというのも、人間の顔の構造からいって無理すぎる。Decke は天井ではなく「上」の意味で、眼球がねじ上げられている、つまり白目をむいているのである。

男は顔を横向きにし、よだれが枕のうえに流れ、白目をむいていた。

83頁
14行目
彼女は人生に満足していた。人生を謳歌していた。
Ihr Leben hatte vor ihr gelegen, und sie hatte sich darauf gefreut.
 イリーナが現状に満足していたのなら daran でなければならないが、ここでは darauf、すなわち将来のことを楽しみにしていたのである。その希望が突然に断ち切られるからこそ悲劇性が高まるのだ。

彼女の前には人生の扉が開かれていて、将来への期待に胸をふくらませていた。

84頁
3行目
しかし、戦争が起こった。
週末、彼女は郊外に住む兄を訪ねた。兄は両親の農家を引き継ぐことになり、軍を退役していた。
Aber in ihrem Land war Krieg.
An einem Wochenende fuhr sie zu ihrem Bruder aufs Land. Er hatte den elterlichen Hof übernommen und war deshalb vom Militär freigstellt worden.
 1行目、戦争が起こったのではなく、すでに戦争中である。イリーナの母国は旧ユーゴスラビアなのだろう。
 2行目、平時ならいざ知らず、血で血を洗う内戦の真っ最中に簡単に軍を退役できるはずがない。農場を受け継いだために兵役を免除されているのである。また、農場を受け継いだ(過去完了)ことから両親が既に亡くなっており、兄の死によってイリーナが天涯孤独となったことが分かるのだが、翻訳の「引き継ぐことになり」ではこれが伝わらない。

しかし、彼女の国は戦争中だった。
ある週末、彼女は郊外に住む兄を訪ねた。彼は両親の農場を相続したため、兵役を免除されていた。

88頁
1行目
イリーナは死んだデブを前にして、途方に暮れた。このままでは捕まって国外退去処分になる。
Irina hatte Angst vor dem dicken toten Mann, und sie hatte Angst, in Abschiebehaft zu kommen und ausgewiesen zu werden.
 イリーナは途方に暮れたのではない。男の死体が怖かったのであり、なによりもカレから引き離されることを意味する逮捕・送還が怖かったのである。

イリーナは肥満男の死体が怖かった。不法入国で逮捕され、強制送還されるのが怖かった。

89頁
7行目
鏡を見つめる。そこに映っているのが自分の顔だとは思えなかった。解放されるためには、この男を解体するしかない。
Er starrte in den Spiegel und wusste nicht, ob er davor order dahinter stand. Der Mann vor ihm musste sich bewegen, damit er sich bewegen konnte.
 単に自分でも驚くほど形相が変わってしまっている、という話ではない。極限状態のなかで意識が朦朧となり、自分が鏡の前に立っているのか、それとも鏡に映った像なのかが分からなくなっているのだ。「この男」は死体ではなく、目の前に立っている(映っている)カレ自身であり、それが動いてくれないと、鏡像たる自分も動けない、というのである。洗面台からあふれた冷たい水が足にかかることでようやく我に返ることになる。

彼は鏡を見つめた。自分が鏡の前にいるのか、それとも鏡の中にいるのか分からなくなった。目の前に立っているこの男が動いてくれないと自分は動くことができない、そう感じた。

90頁
8行目
胴体はゴミ袋を上下二枚重ねにして、うまく収まった。
Die Mülltüten hielten, für Torso hatte er sie doppelt genommen.
 翻訳では、胴体は袋一つには大きすぎ、上と下から袋をかぶせてようやく収まったとなっているが、そうではない。重い胴体の入った袋が床を引きずるうちに破れないよう、特に二枚重ねにしておいた(過去完了)というのである。

胴体を入れたゴミ袋は二枚重ねにしておいたので、引きずっても破れたりしなかった。

91頁
5行目
壊れたシャベルはゴミ袋のひとつに入れた。
Die Reste des Spatens warf er in einen Mülleimer.
 Mülltüten (ゴミ袋)ではなく Mülleimer (ゴミ箱)である。そもそも、しっかり縛ったゴミ袋の口をわざわざ開ける理由がない。ゴミ袋と一緒に穴に投げ込めばよいだけである。実際、原文ではシャベルの「残り」となっているので、折れた柄の部分はそうしたのだろう。しかし、シャベルの刃の部分は穴を埋めるときにも使ったはずであり、それを戻る途中でゴミ箱に捨てたわけである。

壊れたシャベルの残りは公園のゴミ箱に投げ入れた。

93頁
7行目
審理は死体をばらばらにしたことだけを巡って行われた。
Am Ende beschränkten sich die Vorwürfe nur noch auf das Zerstückln.
 翻訳では、公判が開始され、死体損壊罪の成否をめぐる審理が行われていることになっている。しかし、原文は、殺人の線が完全に消えた結果、カレの犯した罪は死体損壊だけになったといっているだけである。審理という言葉は一言もない。それもそのはずで、公判は開かれなかったのである。この文に続く「私」と検察官のやり取りは、拘留審査でのことである(拘留審査についてはこちらを参照)。だからこそ、検察官が諦めてパタンと書類を閉じれば(同頁13行目)、それで事件はおしまいになるのである。

結局、起訴できそうな容疑は死体損壊だけになった。

94頁
1行目
これで国外退去させられる心配はない。
Sie kam nicht in Abschiebehaft.
 本編のタイトルは「幸運」であり、イリーナも最後に、自分たちはなんて幸運だったんだろうと考える。しかし、客観的にみれば、まったく幸運ではないのである。客の男がたまたま心筋梗塞で死んだことから始まり、その日に限ってカレのチラシ配りの仕事がなく、階段とエレベーターで行き違いになり、携帯電話を置き忘れたためカレに連絡できず・・・と、むしろ不運のスパイラルである。以前と比べて二人を取り巻く状況は何も良くなっておらず、むしろイリーナの不法入国が当局に知られたことで悪化している。
 たしかに翻訳によれば、国外退去の心配がなくなり、永住できるようになったのだから十分に幸運ではないか、となる。しかし、原文は、単に不法入国での拘留は免れた、というだけである。国外退去の心配は、決してなくなってはいない。女性弁護士の手助けで難民申請はしているが、結果はどうなるかわからない。
 にもかかわらず、イリーナは、少なくとも当面はカレと離ればなれにならずにすんだことだけを素直に喜び、その小さな幸せを噛みしめている。ここに、本編の妙味があると思う。虐げられた者どうしの健気な愛に対する作者のあたたかい視線が感じられる。翻訳によれば本当に幸運になってしまって、台無しである。

彼女は不法滞在で拘留されずにすんだ。