ハリネズミ

Der Igel

66頁
3行目
証人たちは、被害者の言い分が少々大げさだといい、証拠物件が検討された。
Die Zeugen sagten aus, das Opfer übertrieb ein wenig, die Beweismittel wurden ausgewertet.
 2文目は副文でも間接話法でもない。コンマで区切られた3つの文は、平凡な事件のありふれた法廷風景を、同列で描写している。2文目の das を dass と見間違え、かつ定動詞正置にも気づかなかったのだろうか。

証人たちが証言し、被害者は少しばかり大げさに語り、証拠が調べられた。

68頁
7行目
教室では、赤点すれすれを取るために、やさしすぎて笑ってしまうような計算を何度もまちがえてみせた。
Aber für die Klassenarbeiten rechnete er sich aus, wie viele der lächerlichen Aufgaben er falsch lösen musste, um eine unauffällige Vier minus zu bekommen.
 Klassenarbeiten は「教室」ではなく、「筆記試験」。また、何度も計算を間違えたのではなく、控え目な成績にするために何問わざと答を間違えなければならないかを計算したのである。

しかし、試験では、目立たない4マイナスの成績をとるために、馬鹿馬鹿しい問題のうちいくつ間違える必要があるかを計算した。

69頁
5行目
実業学校を卒業するのにぎりぎりの成績だった。
Er hatte es so eingerichtet, dass er seinen Realschulabschluss knapp bestanden hatte.
 ここも、本気になればずば抜けた成績をとれるのに、わざと留年すれすれの成績に調整したのである。「ぎりぎりの成績だった」だけでは、それがカリムの実力みたいである。

実業学校の卒業に必要なぎりぎりの成績になるように気を配った。

70頁
5行目
カリムはちょっとした資産を持ち、税金を払い、かわいい恋人と巡り会い、文学を学び、ノイケルン地区とは一切関わりを持たなかった。
Er verfügte über ein kleines Vermögen, bezahlte Steuern und hatte eine nette Freundin, die Literaturwissenschaften studierte und nichts von Neuköllin wusste.
 カリムは数学を学び、二重生活の一方としてノイケルンの不良という面ももっているのに、「文学を学び、ノイケルン地区とは一切関わりをもたなかった」はおかしい。この部分は Freundin を先行詞とする関係文である。

カリムはちょっとした財産をもち、税金を払い、文学専攻でノイケルンのことをまったく知らない可愛い恋人もつくった。

71頁
10行目
彼もアブ・ファタリス家のひとりだ。検察局から要注意人物としてマークされている。みんな、彼が嘘をつくと思っている。だからこそ、ワリドの刑務所暮らしは阻止できるはずだ。
Er war schließlich ein Abou Fataris, einer aus der Familie, die von der Staatsanwaltschaft als Intensivtäter gefürt wurde. Jeder hier erwartete, dass er lügen würde. So konnte es nicht funktionieren, Walid würde für viele Jahre im Gefängnis verschwinden.
 ワルは見せかけにすぎないカリム自身が要注意人物としてマークされているわけがない。マークされている云々は、Familie を先行詞とする関係文である。また、嘘をつくと思われているからこそワリドを無罪放免にできる、というのは意味不明である。嘘と決めつけられているアリバイ証言をするだけでは刑務所送りを阻止できないのである。

彼も結局はアブ・ファタリス家、検察局に犯罪常習者の巣窟とみなされている一家のひとりだった。法廷の誰もが、カリムが嘘をつくのを待ち構えていた。そんななかでアリバイを証言しても何の役にも立たず、ワリドは何年も刑務所で暮らすことになるだろう。

71頁
13行目
カリムの脳裏には、ギリシアの詩人アルキロコスの寓話があった。その主題は「狐は多くを理解するが、ハリネズミにはただひとつ必勝の技がある」というものだ。
Karim dachte an den Satz des Sklavensohnes Archilochos, der sein Leitmotiv war: »Viel versteht der Fuchs, der Igel eines nur.«
 表題の「ハリネズミ」が登場する箇所だからきっちり訳してほしいところだが、「その主題」は誤りである。der sein Leitmotiv war の sein はカリムであり 、der は Satz を先行詞とする定関係代名詞である。「必勝の技」という言葉のセンスも気になるところである。
 また、アルキロコスの狐とハリネズミはグリム童話のような「寓話」でなく、「詩片」である。だから、本編最後(80頁10行目)の「頭のなかには狐とハリネズミの話があった」も変である。なお、この謎めいた詩片には古来から様々な解釈があるが、狐はずる賢くいろいろな知恵をもっているが、結局は捕獲されてしまう。これに対し、ハリネズミは全身の針を立てて身を守るという一つの術しか知らないが、敵を撃退して生き延びることができ、狐に優る。これが一般的な理解のようである。

カリムは、女奴隷を母に持つ古代ギリシアの詩人アルキロコスが残した一文を思い浮かべた。彼が人生の信条にしている言葉だ。「狐は多くのことを知っているが、ハリネズミは大事なことをただ一つ知っている」。

72頁
9行目
カリムは、調書に入っていた面通しの写真を見ていた。うち四枚はいかにも警察官らしい警察官だった。金髪の口ひげ、ウェストポーチ、スニーカー。ワリドの写真は顔が大写しで、黒髪、黄色い文字入りの緑のTシャツ。
Karim kannte die Fotos der Gegenüberstellung aus den Akten. Vier Polizisten, die wie Polizisten aussahen: blondes Oberlipenbärtchen, Bauchtasche, Sportschuhe. Und dann Walid: einen Kopf größer und doppelt so breit, dunkle Haut, grünes T-Shirt mit gelber Schrift.
 Gegenüberstellung は、アメリカの刑事ドラマなどでよく見かける、壁の前に立たせた数人の男たちの中から目撃者に犯人を選ばせるタイプの面通しである。翻訳では、1人ごとの写真を1枚ずつ順番に見せていくものと捉えている。そのために、「ワリドの写真は顔が大写しで」とまたしても意味不明に陥っており、それに続く doppelt so breit は訳しようがなかったためか、省略されている。

カリムは、調書のなかに入っていた面通しの写真を知っていた。一列に並んだ五人の男たちの写真だ。うち四人は警察官で、金髪の口ひげ、ウェストポーチ、スニーカーという、いかにも警察官らしい風貌をしていた。そしてワリドはというと、他の四人よりも頭ひとつ背が高く、肩幅は倍もあり、黒髪で、黄色の文字がプリントされた緑のTシャツを着ていた。

75頁
18行目
カリムは先週、クロイツベルクのコピー店をいくつも梯子して、Tシャツを二十着こしらえ、兄全員に配り、家宅捜索をされたときのために、十二着を母の家にしまっておいたのだ。
Karim hatte davon zwanzig Stück in der vergangenen Woche in einem der unzähligen Kopierläden in Kreuzberg hergestellt, an alle Brüder verteilt und zehn weitere in der elterlichen Wohnung deponiert - falls nochmals eine Durchsuchung stattfände.
 何店も梯子して複数の店に作らせたら、聞き込みされた場合にそれだけ足がつきやすくなる。カリムがそんな愚かなことをするはずがない。無数にある店の一つで作ったのである。また、原文では母の家に置いたのは10着である。たしかに20着から拘留中のワリドを除く兄7人とカリム自身の分を引けば12着になるが、配ったのが1着ずつとは限らないので、原文を無視してまで12着にする必然性があるとは思えない。

カリムは先週、クロイツベルクに無数にあるコピー店の一軒でそのTシャツを二十枚つくらせ、兄全員に配り、家宅捜索がもう一度はいる場合に備えて母の家にも十枚を置いておいた。

77頁
8行目
人当たりのいい初老の国選弁護人が口をはさんだ。わけがわからなくなっていたのだ。
…, unterbrach der Pflichtverteidiger, ein freundlicher älterer Anwalt, dem plötzlich der Fall nicht mehr so aussichtslos erschien.
 「わけがわからなくなっていた」とはずいぶん失礼な話である。それまで居眠り気味だった弁護人だが、今はしっかりと事の成り行きを理解している。弁護の余地がないと匙を投げていた事件に、思いがけず展望が開けてきて喜んでいるのである。だから、カリムが家族写真の罠の仕上げにかかったとき「弁護人はにやにやした」(79頁5行目)のである。

国選弁護人が口をはさんだ。感じのいい初老の弁護士で、急に事件が見込みのないものではなくなってきたと感じていた。

78頁
8行目
彼は被害者だったが、もう一度前に呼び出され、家族写真を見せられた。犯人は右から二人目、それを確かめるためだ。彼は「もちろん二人目です。二人目にまちがいないです」といった。少し早く答えすぎた。あとになって、自分でもそう思った。だが裁判官たちはほっとした。
Er war schließlich das Opfer. Jetzt wrude er nochmals nach vorne gerufen, und ihm wurde das Familienbild vorgelegt. Er hatte verstanden, dass es um die ›Nummer zwei‹ ging, den musste er erkennen. Er sagte - etwas zu schnell, wie er selbst später fand -, dass der Täter »natürlich der zweite Mann auf dem Bild« gewesen sei. Er habe keine Zweifel, das sei der Täter, ja, völlig eindeutig »die Nummer zwei«. Das Gericht beruhigte sich etwas.
 誤訳とまでは言えないかもしれないが、家族写真はカリムがこの被害者を引っかけるために用意した仕掛けであり、その思惑通りに事が運んでいくという大事な場面なので、下手なアレンジを加えるべきではない。最後の文章も、ほっとしたのは裁判官だけではないし、「だが」でつなげるのもおかしい。

彼はなんといっても被害者なのだ。もう一度前に来るよう呼ばれ、家族写真を見せられた。要は「二番目」だということが分かっていた。見分けなければならないのは二番目だ。彼は、あとで自分でも少し急ぎすぎたと思ったほど勢いこんで答えた。犯人は「もちろん写真の二番目の男」でした、間違いありません、犯人はこいつです、そうです、まったく明らかに「二番目」です。法廷に何やらほっとした空気が流れた。