シーラッハの『犯罪』

フェルディナント・フォン・シーラッハが2009年8月に発表したデビュー作『Verbrechen』 は世界的なセンセーションを巻き起こした一冊である。著名な刑事弁護人でもあるシーラッハが、自らの法律事務所で扱った事件をヒントにしたというこの犯罪短編集は、本国ドイツにおいて54週連続でシュピーゲル紙のベストセラーリスト入りするなどの快挙をなしとげただけでなく、30を超える国々で翻訳され、いずれの国でも大好評を博している。日本でも、2011年6月に『犯罪』のタイトルで東京創元社から翻訳書が出版され、各方面から高い評価を得たことは記憶に新しい。

日本語版の問題点

たしかに、この作品はまぎれもない傑作である。趣向を凝らした10の短編は宝石さながらに丹念に磨きこまれ、どの一編も忘れがたい鮮烈な印象を残す。とくに私たち日本の読者にとっては、作品のあちらこちらに日本が関係してくるのも楽しい。『タナタ氏の茶盌』をはじめ、『棘』のラストで微笑む京都の仏頭(186頁2行目。翻訳書の頁・行、以下同じ)、『愛情』の佐川一政(194頁9行目)。さらに付け加えれば、『エチオピアの男』の主人公ミハルカがちなんで名付けられた聖人フランク・クサバー(Franc Xaver。200頁1行目)の日本語読みは、フランシスコ・ザビエルである。
 
にもかかわらず、極めて残念なことがある。それは、翻訳書にあまりにも誤訳が多いということだ。単に翻訳の文体がシーラッハの原文にそぐわない云々といった主観的なクレームではない。文法上の錯誤や単語の混同といった初歩的なミスが、それこそ2、3ページおきの頻度で現れるのである。シーラッハの法律家らしい洗練された明晰な文章が、誤訳のためにねじ曲げられ、あちこちで破綻し、ときには意味不明にさえ陥っているのを見るのは、原著を愛する者にとって耐えがたい苦痛である。作品自体が稀にみる傑作であるだけに、このような質の悪い翻訳を読まなければならない日本の読者は、大きな損失を被っていると言わざるをえない。

「サマータイム」の誤訳

誤訳が作品に及ぼす影響はまちまちである。他の部分にはほとんど関係しないものもあれば、作品の雰囲気を損なったり読者を混乱させたりする重大なものもある。なかでも、どうしても看過できないのが、「サマータイム」の誤訳である。シーラッハが狙った作品の醍醐味がそれによってほぼ完全に潰されてしまっているという、この上なく深刻で致命的な誤訳である。
 
「サマータイム」は、その収録位置や分量からして、本書のなかでも中核を占める作品といえる。念のため、あらすじを紹介しておこう。女子大生殺しで逮捕・起訴された高名な実業家ボーハイムは、死体発見時刻の1時間前に犯行現場のホテルを出たと主張するが、死体発見直後にホテルの駐車場を出る姿が監視カメラに捉えられていた。時刻つきのカメラ映像という動かぬ証拠がある以上、彼の有罪判決は不可避と思われた。しかし、シーラッハの分身である優秀な弁護人が起死回生の発見をする。事件が起こったのは、サマータイムの夏時間が終了する数日前のことだった。ところが、ホテルの監視カメラは一年を通じて冬時間に固定されたままであり、映像には犯行日の実際の時刻よりも1時間遅い時刻が刻印されていたのだ。その結果、ボーハイムがホテルを出たのは、彼の主張通りに死体発見の1時間前であり、こうして生まれた「空白の1時間」こそ弁護側が血眼になって探し求めていたもの、すなわち他に真犯人が存在する可能性にほかならなかった。そして、以上のことは、ほかならぬ監視カメラの映像によって証明されていた。偶然そこに映っていたボーハイムの腕時計が、まさに監視カメラの時刻よりも1時間早い時刻を指していたのである。この劇的な発見によって、裁判は急転直下し、ボーハイムは見事に無罪を勝ち取るのだった。
 
翻訳は、ボーハイムが無罪放免された後、被害者シュテファニーの彼氏であるアッバスが真犯人として逮捕されたが証拠不十分で起訴されず、結局事件は迷宮入りになったこと、事件を担当したシュミート検察官が念願の引退を果たしたことを述べ、「メラニー・ボーハイムは、裁判が終了した一ヶ月後、離婚した。」という文章で終わる。問題の誤訳は、その「後」にある。実は、原文ではこの後にまだ段落が1つ続いているのである。以下は、その原文と試訳である。

Schmied begriff die Sache mit der Zeit erst Monate nach seiner Pensionierung und weil es ein milder Herbsttag war, schüttelte er den Kopf. Für eine Wiederaufnahme des Verfahrens würde es nicht reichen und die Zeit auf Boheims Uhr würde es nicht erklären. Er kickte eine Kastanie aus dem Weg und ging langsam die Allee hinunter, während er dachte, dass das Leben seltsam war.

シュミートは、引退して数ヶ月たってから、ようやく時間をめぐる問題の真相に気がついた。うららかな秋日和だったので、彼はただ頭を振った。再審の請求には不十分だろうし、ボーハイムの腕時計が指していた時間も説明がつかないだろう。シュミートは足もとに落ちていた栗の実をつま先で蹴とばすと、並木道をゆっくりおりて行った。人生は奇妙なものだと考えながら。

なぜ段落が丸ごと欠落しているのか、理由は分からない。翻訳者の訳し忘れなのかもしれないし、出版社の編集上のミスなのかもしれない。ただ一つはっきりしているのは、この一段落こそシーラッハが「サマータイム」に仕掛けたトリックの最後の仕上げであり、この部分を欠いた翻訳は本作品の価値を著しく毀損しているということである。

失われた段落の意義

この最後の段落でシュミート元検察官は、空白の1時間についてある洞察を得、やはりボーハイムが真犯人であったことを確信する。ボーハイムに完全にしてやられたのである。穏やかな気候のおかげで首を振るだけにとどめたが、そうでなければ悪態をつきたくなるような気分だったろう。無罪判決の言渡し後に「おめでとう」と声までかけたのだから無理もない。しかし、まんまと引っかけられたのは、シュミートをはじめとする作中の裁判関係者だけではない。読者もまたこの最後の段落で、自分がシーラッハの術中にはまっていたことに気づかされるのだ。
 
シュミートらが欺かれたのは、ボーハイムの人間的魅力に加え、監視カメラの腕時計の映像という劇的な証拠があまりにも鮮やかに提出されたせいだった。同じように、読者も途中でサマータイムの時間差に関係するトリックであることに気づき、その推理が見事に裏付けられるという気持ちのよい展開のなかで、いつしかボーハイムの無実を疑わなくなってしまう。これこそシーラッハの仕掛けた罠にほかならない。彼は、読者が必ずトリックに気づくように、最初から親切にネタばらしまでしている。そう、「サマータイム」というタイトルによって。
 
この段落の直前まで、読者はアッバスが真犯人だと納得しているだろう、嫉妬に駆られた末の凶行だったと。いかにもすっきりとした結論である。しかし、考えてみればその可能性は極めて乏しいことが分かる。ホテルの玄関はドアマンが目を光らせているし(106頁3行目)、地下駐車場は監視カメラが見張っている。街で最高の一流ホテルに、アラブ系の目立つ風貌をしたアッバスが誰にも見とがめられず侵入できるルートがあるとは思えない。そうすると犯人はボーハイム以外に考えられないのに、シーラッハの巧みな誘導によって、ボーハイムの容疑は見事に晴れたと思いこまされているのである。種明かしとなる最後の段落を欠いた翻訳書の読者は、その思いこみのまま本書を置くことになり、シーラッハが用意した真のトリックの存在に気づくことすらできない。作品と読者に対する背信行為とすら呼びたくなる「誤訳」である。

シュテファニー殺しの真相

では、シュミートが見抜いた時間をめぐる真相とはどのようなものだったのだろうか。いちおうの私見を述べておきたい。
 
駐車場から出るボーハイムの姿を捉えた監視カメラの映像には、死体発見の直後である15時26分という時刻が記録されている。にもかかわらずボーハイムが無罪になった根拠は、次の2点だった。

  • まだ夏時間だった犯行当日にホテルの監視カメラは冬時間に設定されており、実際の時刻より1時間遅い時間を示していたこと。つまり、実際の撮影時刻は14時26分だったこと。
  • 監視カメラに撮影されたボーハイムの腕時計も14時26分を指していたこと。

シュミートが気づいたのは、A.は証明されていないということだったのではないだろうか。監視カメラは設置時以来ずっと冬時間のままだというのはホテルの警備部長の証言だが(125頁12行目)、これは弁護側が聴取してきたものにすぎない。弁護側が持ち出したこのような証言を検察側が鵜呑みにすることなど通常はありえない。にもかかわらず、B.があまりに鮮やかで決定的だったため、検察による裏付け捜査や法廷での証人尋問はその必要なしとして行われなかったと思われる。これらの証拠が提出されたことにより審理は中断され、「次の公判で」(126頁15行目)ボーハイムに無罪判決が出されているが、ドイツの参審員裁判もアメリカの陪審員裁判やわが国の裁判員裁判と同じように連続審理が原則であり、次の公判というのは翌日のことである。つまり、裏付け捜査や証人喚問をする時間的余裕はまったくなかったはずなのだ。

なお、証言は「私」がじきじきにとっており、証言そのものが捏造というわけではない。しかし、大富豪のボーハイムが前もって密かに警備部長に手を回し、指示通りの証言をさせることはさして困難ではないだろう。たとえ後に事実に反することが判明しても、弁護士相手に陳述したにすぎない警備部長が捜査妨害や偽証罪に問われるリスクはない。そして、恐らく「私」も内心では証言が虚偽であることに気づいていたと思われる。依頼人と刑事弁護人との「奇妙な関係」についての記述(114頁2行)がそれを示唆している。そこではこう述べられている。弁護人は依頼人が殺人を犯したことを知っていたら、依頼人のアリバイを証言する証人を法廷に呼ぶことはできない、だから弁護人は必ずしも真実を知りたいとは思わない、と。逆に言えば、たとえ弁護人が依頼人の無罪を信じていなくても、それだけなら依頼人の無罪を示す証拠を出してもまったく構わない。今回がまさにそうした場合に該当するからこそ、法的にも職業倫理的にも何も問題がないことを説明しているのではないだろうか。

かりにA.の証言が虚偽であり、監視カメラの時刻が正しく夏時間の15時26分であったとすると、B.との間に矛盾が生じる。シュミートも、たとえ再審請求してもボーハイムの腕時計の件は説明つかないだろうといっている。しかし、単純明快な説明がひとつ可能である──ボーハイムが、意図的に腕時計の針を1時間戻しておいたのだ。そして、偶然を装いながら、わざと監視カメラに腕時計を向けて映り込ませたのである、優秀な弁護人がいずれ気がつくことを確信しつつ。ボーハイムが絶体絶命でありながら終始落ち着き払っていられたのもこの大逆転の仕掛けがあったからだろう。また、警察官による最初の事情聴取に対し、被害者とは面識がなく間違い電話をかけただけという、すぐばれると誰でもわかる、あまりにもボーハイムらしからぬ稚拙な嘘をついたのも(109頁14行目)、この仕掛けの一環だと考えれば腑に落ちる。後先も考えずにその場しのぎの言い逃れをする迂闊な人間と印象づけておけば、犯行直後から周到な仕掛けを仕込んだという可能性を疑う者はいなくなるだろう。

ただ、謎は残る。ひとつは殺害の動機であり、もうひとつは激情的で残忍な犯行とその直後に緻密なアリバイ工作を練りあげて実行する冷徹さとがあまりにも不釣り合いなことである。これらに対しては、シュミートの口ぶりをまねて「人生とは奇妙なものだ」と呟くほかない。

以上の推理はあるいは的外れで、もっと洗練され説得力のある別の解釈があるかもしれない。しかし、それでまったく構わないのである。最後の段落でシーラッハは、「どうです、あなたも一杯食ったでしょう。どこで引っかかったか分かりますか?」と問いかけているのであり、読者は何度もじっくり読み直し、あれやこれやと自由に頭をひねればよいのである。それがこの作品の醍醐味なのだから。

本サイトの趣旨

シーラッハの原著は、曖昧な言い回しや過剰な修飾など微塵もない、平明かつ論理的な文章だけで構成されている。翻訳書を読んでいて意味が分からない表現や前後で矛盾するような箇所に出くわしたら、それは間違いなく誤訳のせいである。世評のわりには期待外れだったという感想を抱いたとすれば、その責任の少なからぬ部分も恐らく誤訳にある。なんとも口惜しい話であるが、いくら嘆いたところで誤訳による瑕疵が自然治癒するわけではない以上、損失を取り戻すためには読者が自分で誤訳部分を修正・補完するしかない。本サイトはその一助となることを目的として、気がついた誤訳を以下のような形式で作品ごとに指摘している。底本としたのは、翻訳書は東京創元社の単行本第8刷(2012年4月)、原書はPIPERのペーパーバック版第2刷(2012年1月)である。

○○頁
○行目
 翻訳文
ドイツ語原文
 
解 説
 試 訳

項目の合計数は優に100を超える。本文210ページほどの中にこれだけの誤訳を抱えているにもかかわらずなお高い評価を得ていることは、原著がいかに傑作であるかを逆説的に物語っているのだが、それにしても尋常な数ではない。何らかの手違いにより下訳の草稿が誤って印刷所に回されてしまったのではないかと疑いたくなるほどである。今後のシーラッハの新作も同じ翻訳者・出版社が手がけていくつもりならば、次こそは良質の作品を良質の翻訳で読みたいという読者の素朴な期待を踏みにじらないでほしいと切に願う。ともあれ、本サイトが『犯罪』の本来の魅力を再発見するきっかけとなれば、愛読者の一人として望外の喜びである。


(公開:2013年1月8日)